想綴-SOUTEI

日常を通り過ぎた誰も気に留めない瞬間

16.5.2022 キャパオーバーだと認めてみる

中畑清いわく「調子はどうだ?」と長嶋茂雄から話しかけられたときに「まぁまぁです」と答えると試合に出してもらえないので、多少調子が悪くても「絶好調です!」と答えるようにしていたのだそうだ。

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本当にダメな時は休まなきゃだめなんだけど、この中畑清現象は根性論や精神論と絡み合いながら戦前から続き、日本社会の隅々までびっしり根を張っていると思うことがある。

僕たち個人がしっかりしていて、社会に対して「んなこと言っても!」ときちんと反抗できればいいんだけど、僕も含め大多数の人は「ま、いっか」なんて安請け合いしているうちにいつの間にか無理が当たり前の社会に飼い慣らされちゃっていて、無意識のうちに私生活でも予定を詰め込みまくってる。

無理な買い物したり睡眠時間削ってNetflix観てたり、疲れてるのに人と遊ぶ約束入れたりしちゃう。本当はどこかでリセットしなきゃいけないのに、この社会に飼い慣らされた僕たちは資本主義の尖兵となり命を削って経済活動に勤しむのだ。

 

歳を重ねた今改めて一体自分のキャパオーバーってどこだろう?と振り返ってみると、意外に自分のキャパシティが小さいことに気がつく。1日にやれることだってたかが知れてるし、Google先生の助けを借りても知識量だって知れてるしスキルだって限界がある。なにより若い頃にはなかった「嫌らしいしがらみ」でがんじがらめだ。

 

「もう無理っす」

僕たちの脳にプリセットされている、泣き言を言うなんて男として恥ずかしい思いと社会から置いてけぼりにされる恐怖を振り払い、仕事場と家庭でキャパオーバー宣言をしてみた。たぶん自分が20代だったらそんなこと言う大人を蔑んだ目でながめて「コッカラッス」と大声で被せたんだろうけど。

年齢的に自分はまだそんな年寄りじゃないけど、世代交代の時期なんだと勝手に考えることにしたら人生の視界が開けたような気がする。肩の荷をぶん投げたとも言うけど。
いのちをだいじに。