想綴-SOUTEI

日常を通り過ぎた誰も気に留めない瞬間

10.6.2022 ポヨ子の朝

「ポヨ子急げ!」

毎朝眠い目をこすってダイニングテーブルに座るポヨ子は夢と現実を行ったり来たりしながら、時折不貞腐れたようにテーブルに突っ伏したり朝ごはんを拒否したりする。

毎朝6時半に叩き起こされて、着替えも食事も毎日急かされるなんて5歳児には酷な毎日だ。


「もう間に合わない!また遅刻しちゃう!」

お母さんは金切り声を上げてポヨ子をアジる。5分10分と時間が経過するに従い、優しい声はアジテーションに変わり、言葉に鏃が付け足されていく。

焦る気持ちはわかるけど、これは所詮大人の事情なのだ。生きるために仕事をしなければならないのは事実だけど、会社の中の評価や罰を恐れるあまりその恐怖がアジテーションとなり(確かにポヨ子はグズだが)子供に向けて射られるのは違うと思うし、そもそもまだ小さな子供を大人の事情で振り回していることを忘れてる。


「わたしどうなっちゃうの!クビにされちゃう!」

それは大人の事情でしかないじゃないかと諭しても火に油が注がれるだけだ。

ポヨ子は悲しそうな目をしてお母さんのボルテージが上がるさまを眺めている。ポヨ子に向けられた言葉は次第に自己否定へと矛先を変えて部屋の中を四方八方に飛び回る。

壁に当たった言葉が天井とテーブルにあたり流れ弾になって僕の気持ちを粉々に砕いていく。ポヨ子の心は大丈夫だろうか。

テーブルの上には食べかけのパンがいつも残っている。

慣れてきたとはいえ毎朝のこのやり取りは精神と体力を著しく損なう。家を出た僕はまだ働いてもいないのに気持ちは鉛色で足取りも重い。

最近急に混み出した満員電車の中で、茹ですぎたモヤシのようになりながらこの文章を書いているけど、そもそもこの生き方は正しくない。どの家庭もそうだ(だから受け入れろ)と言われても、その考えは間違っていると思う。

少なくともポヨ子にとって良いことなんてないだろうから、生活のサイズを小さくすることを前提で仕事を辞めてもらうか自分が自由になるかを判断する時期に来たんだと思う。

こんな社会にした責任は自民党と日本社会の構造そのものにあるのは間違いない。働き方なんて一向によくならないし収入を維持するために家庭は二の次三の次にしなきゃいけない。

こんな生活じゃこの国に子供なんて増えるわけないじゃんね。

16.5.2022 キャパオーバーだと認めてみる

中畑清いわく「調子はどうだ?」と長嶋茂雄から話しかけられたときに「まぁまぁです」と答えると試合に出してもらえないので、多少調子が悪くても「絶好調です!」と答えるようにしていたのだそうだ。

column.sp.baseball.findfriends.jp


本当にダメな時は休まなきゃだめなんだけど、この中畑清現象は根性論や精神論と絡み合いながら戦前から続き、日本社会の隅々までびっしり根を張っていると思うことがある。

僕たち個人がしっかりしていて、社会に対して「んなこと言っても!」ときちんと反抗できればいいんだけど、僕も含め大多数の人は「ま、いっか」なんて安請け合いしているうちにいつの間にか無理が当たり前の社会に飼い慣らされちゃっていて、無意識のうちに私生活でも予定を詰め込みまくってる。

無理な買い物したり睡眠時間削ってNetflix観てたり、疲れてるのに人と遊ぶ約束入れたりしちゃう。本当はどこかでリセットしなきゃいけないのに、この社会に飼い慣らされた僕たちは資本主義の尖兵となり命を削って経済活動に勤しむのだ。

 

歳を重ねた今改めて一体自分のキャパオーバーってどこだろう?と振り返ってみると、意外に自分のキャパシティが小さいことに気がつく。1日にやれることだってたかが知れてるし、Google先生の助けを借りても知識量だって知れてるしスキルだって限界がある。なにより若い頃にはなかった「嫌らしいしがらみ」でがんじがらめだ。

 

「もう無理っす」

僕たちの脳にプリセットされている、泣き言を言うなんて男として恥ずかしい思いと社会から置いてけぼりにされる恐怖を振り払い、仕事場と家庭でキャパオーバー宣言をしてみた。たぶん自分が20代だったらそんなこと言う大人を蔑んだ目でながめて「コッカラッス」と大声で被せたんだろうけど。

年齢的に自分はまだそんな年寄りじゃないけど、世代交代の時期なんだと勝手に考えることにしたら人生の視界が開けたような気がする。肩の荷をぶん投げたとも言うけど。
いのちをだいじに。

12.5.2022 HomePod miniが想像以上によかった

ここ数年は自分のメンタルを守るために、年末年始だとかゴールデンウィークのような長い連休があけた後は必ず2,3日働いた後に1日ないし2日休むことにしている。連休明けて即仕事!アクセルベタ踏み急加速で仕事!なんてことができた頃のあの頑丈なメンタルは何でできていたのだろう。

今年は年明けから想定外のハプニングが連続していたので3月の初め頃には精神的な疲れがピークに達していた。折れたり不貞腐れたりした心を糊で繋ぎ合わせて連休に入った。

大型連休というぬるま湯に入ったが最後、糊が剥がればらばらに水中分解してしまうのではないかと心配だったので今年は連休後に自主的に連休を取った。

連休中は自分を甘やかすためにまず手始めにHomePod miniを買ってベッドサイドに置いた。

朝起きてコーヒーを淹れたらベッドに持ち込んでダラダラとラジオを聴きながら午前中をベッドの中で過ごすのだ。

手のひらサイズからは想像できないほどの音量があり中低音も豊かで驚く。1万円ちょっとでこの音質ならあり。これはすごいプロダクトだと思う。ちょろっと生えた電源コードも尻尾みたいでかわいい。

 実はいままで毛嫌いしていたSiriに話しかけてみたけど、これはこれでたのしい。

www.apple.com

9.5.2022 不安の吸い取り紙

連休明けは身体に悪い。

休日が忙しすぎて体力を回復先させる暇もないと言えばその通りだけど、社会人らしい風貌をして話し方を整えて決められたルールに従わなきゃいけない壁があまりに高すぎて、これから一日社会の歯車になるのだ、がんばるぞ!…と思う間も無く心が折れてしまう。

そんな今朝、仕事の準備して家を出ようとした時にはやっぱり既に体力もメンタルもゼロ。あーあ、こりゃだめだわ…とソファに寝転んだら猫達が次々に飛び乗ってひっついてきた。

猫達がゴロゴロと喉を鳴らし僕の体に全身を擦り付ける様をながめていると、まるで吸い取り紙のように僕の不安を全身で引き受けてくれているようにも見える。彼女たちにそんなサービス精神がないのは百も承知だけど、この子たちに心配を押し付けたら悪いなぁと思い、重い腰をよっこら起こして仕事に向かうことにした。

うめき声をあげ、くしゃくしゃの髪と服をきてかろうじて日本語と英語がわかる労働ゾンビの出勤である。



6.5.2022 いってらっしゃい

大きなストレスを伴う日常への復帰は、意味もなくこなしていた日頃のルーティンを踏襲するところから始めるのが良いと考えている。

ルーティンとはどこか呪術的なもので、どこにあるかもわからない自分の日常スイッチを押してくれるからだ。自己暗示的と言ってもいいかもしれない。

いまの仕事を始めた頃、調子の良かったころのルーティンは朝に立ち寄る蕎麦屋だった。今日はここから始めよう。

ガラガラと引き戸を開け食券を出す。

そばつゆと脂の匂いを感じながら待つことしばし。テーブルに供された天ぷら蕎麦に呪術師のごとく胡麻と唐辛子をこれでもかとかける。大東京の片隅で誰にも気付かれずに粛々と進む儀式、連休明けで社会に適応できないことが確定している自分への儀式だ。

ずるずると蕎麦と天ぷらを貪りつゆを飲むと儀式はあっという間に終わった。背中にかけられた「いってらっしゃい」の声に押され店を出た瞬間、スイッチなんて何も入っていなかったことに気がつく。

(ごちそうさま、でもスイッチは入らなかったよ)心の中でそう呟いた。今日はどこまでも弱気だ。社会生活もう無理。


5.5.2022 連休明けの憂鬱

今日はきっと連休明けを憂うブログの記事やツイートで溢れているに違いない。

そんな他人事みたいな物言いをする僕も、明日からまた通勤電車に我が身を詰め込んで価値があるんだか意味があるんだかわからない仕事に精を出すんだよなぁ…こんな生活いつまで続くんだろう…と思うと心が張り裂けそうになる。

連休明けに忍び寄るこの感情を見つめ直してみると、僕が嫌なのは労働ではなくコミュニティや組織、社会への反論を許さず無言で服従を迫る日本人的な社会なのだと思う。みんな心のどこかで馬鹿馬鹿しいと思いながら隣の誰かに無言のプレッシャーをかける。そんな社会。

明日からの生活に思いを巡らせいま猛烈にブルーな気分になっている。


 

 

飯を食うためには稼がねばならぬ、手持ち資金は人生の自由度なのだ。

3.5.2022 子供の泣き声と初老の女性

駅ナカのスープ屋でポヨ子と遅めの昼食を取っていたら突然店内のどこかから小さな子供の喚き声が聞こえた。

声の方向に目を向けると、なんとか子供をあやそうとしている若い子育て夫婦のその横で、綺麗に刈り込まれた白髪の女性が眉間に皺を寄せていた。

横目でじろりじろりと子育て夫婦を睨みつけていた初老の女性は、数分後にスッと席を立ち店を後にした。

整えられたショートカットの白髪と軽やかな身のこなしはとても溌剌としていて、強い女性、媚びない女性というメディアが与えたテンプレートを背負って生きているような立ち振る舞いだったが、その場に居合わせた数人の客が彼女の行動に気づいたようで、不快な眼差しを彼女の背中に突き立てていた。非難混じりの視線の矢をその背中で弾き返しながら早足で去っていった女性を眺めながら僕の気分も少しだけささくれ立っていることに気づいた。

多くの人は育っていく過程で初老の女性は優しい物だと刷り込まれているからだろう。刷り込まれた初老女性の虚像と、目の前を通り過ぎた女性のギャップに戸惑っていたのだ。きっと。

子供の泣き叫ぶ声は確かに心地よい物ではないしどこまで許容できるかは人それぞれなので、あの初老の女性に落ち度があったというわけではない。きっと子供声が苦手だったんだ。

そもそも人間の生活には適度な距離感が必要なのだ。いつの間にか「そういうもんだ」で片付けられてきたけれど、群れや個人で対立し略奪と征服が本能に埋め込まれているヒトという動物にとって都市の生活は過密なのだ。

初老の女性が席を立った十数分後、僕はスープまみれのポヨ子の口元を紙ナプキンで拭き店を後にした。

この子が暮らす未来はもっとおおらかであって欲しいなぁ。